松江郷土館(興雲閣)=1902〜1903年(明治35年〜明治36年)に建築費用¥13,489で建てられました。建築面積522,09u/敷地面積2,306,24u明治天皇を山陰地方へお迎えしようとする目的で建てられたが日露戦争勃発の影響などもあって、日の目を見る事はなかった。しかし1907年(明治40年)に皇太子嘉仁親王(大正天皇)の山陰御巡幸時に5月22日〜25日までの4日間、御宿泊所となり、迎賓館としての役割を果す。1973年(昭和48年)には内部に松江郷土館が開設されてる。ロシア風スタイルの建築様式を持つ興雲閣は1階と2階に列柱(コロネード)を配し、1階は石敷き、2階は回廊の特徴をもつ。1969年(昭和44年)に島根県有形文化財に指定されています。松江郷土館は興雲閣の保護と郷土資料の収集展示を目的にS48,11/3オープンしました。 |
松江神社(島根県神社庁指定特別神社)=御祭神、松平直政公(松平初代藩主)堀尾吉晴公(松江開府の祖)松平治郷・不昧公(第七代藩主)徳川家康公、明治十年に旧松江藩の人々によって、川津村(現松江市西川津町)楽山に松平直政公を御祭神として楽山神社が創建されましたが寛永五年(1628)堀尾忠晴公朝酌村西尾(現松江市西尾町)に創建した東照宮を明治三十二年に合祀し当地に御遷座松江神社と改称されました。又昭和六年に松江開府の祖堀尾吉晴公、松江藩中興の名主・不昧流茶道始祖松平治郷・不昧公を配祀し今日に至っております。本殿は寛永五年(1628)拝殿は寛文元年(1661)建造の権現造り、手水舎は寛永十六年(1639)建築。 |
松江水燈路=9月中旬〜10月中旬、毎週土曜日・日曜日・祝日の18:30〜21:00にかけて松江城の周辺に燈をともし、水と光の幻想的景観が楽しめる「松江水燈路」には多くの見物客が訪れます。塩見縄手、武家屋敷、小泉八雲旧居、田部美術館、八雲庵辺りから大手前堀川めぐり乗船場にかけて燈籠が点され、夜間運航する堀川遊覧船の船上からは普段は見ることのない景色が展開されます。これも国際文化観光都市「松江」の醍醐味かも知れません。またこの時季は夜の松江城が開門されますので、天守閣に登閣したり、ライトアップされた松江城を堪能するのも良いでしょう。
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城山稲荷神社=徳川家康公の孫にあたる松平直政公が藩主として入国した翌年に藩内の安穏繁栄を祈念して、かねて信仰していた稲荷大神(宇迦之御魂神)を出雲隠岐両国の守護神として城内に祀られた神社。直政公が入国してから十年目の慶安元年(1648)は天候不順で、これに心を痛めた直政公は当社の御神霊を船渡御によって出雲郷にある阿太加夜神社に移し、長期にわたり五穀豊穣の大祈祷を行わせたところ祈願が成就し、以来十年目毎に御神幸が行われる慣わしとなりました。神輿船の曳船として櫂伝馬船が加わるようになったのは文化五年(1808)の御神幸の際、大橋川から中海に出る馬潟沖で風雨が激しくなり神輿船が危険になったのを馬潟の漁師が助けにでて出雲郷まで無事にお送りしたことに始まり、その後馬潟、矢田、大井、福富、大海崎の五つの地区の櫂伝馬船が神輿船の曳船をつとめることとなって、江戸末期からは12年毎の5月に斉行されました。この神幸祭は俗にホーランエンヤといわれ、初日の阿太加夜神社への渡御祭と「五穀よく稔り、諸の蒼生(あおひとぐさ)に至るまで思わざるの災いなく、世のやすく、穏やかにありなんこと」を祈念する7日間の大祈祷の後、当社にお帰りになる櫂伝馬船の上では歌舞伎衣装の剣櫂や女姿の采振りがホーランエンヤの唄にあわせ勇壮華麗に舞踊る絢爛豪華な時代絵巻を繰り広げる日本三大船神事の一つといわれています。
日本三大船神事ホーランエンヤ「ホーオオエンヤ ホーランエーエ ヨヤサノサ エーララノランラ」大橋川から意宇川の間を櫂伝馬船(かいでんません)の櫂かき音頭が流れる。日本三大船神事ホーランエンヤとは島根県松江市殿町にある松江城山稲荷神社式年神幸祭(まつえじょうざんいなりじんじゃしきねんしんこうさい)のことで12年に一度、五穀豊穣を祈願して馬潟、矢田、大井、福富、大海崎の地域を合わせた約100隻以上の大船団が城山稲荷神社の御神霊をお慰めする360年の歴史を有する神幸祭です。12年に一度ということは櫂伝馬船に乗れるのは、ほとんどの人が一生に一度きりになります。2009年度でおおよそ34回目のホーランエンヤといわれていますが(10年目で開催した年や流れた年があるため)おおよそと言うのは、この地方は出雲神話の国として全国的に有名で昔から出雲時間という時の流れがありました。今でも風習としてのなごりがありますが、ようするに都会のように正確な刻みではなく少し遅れたのんびりとした時間帯のことで、12年が10年や13年になったとしてもその範疇(はんちゅう)に入っていたのでしょう。見所は、「渡御祭」と「中日祭」と「還御祭」ですが、特に神幸祭の初日に当たる渡御祭は城山稲荷神社の御神霊を陸行列で大橋川へ運び、神輿船で約10km離れた意宇川まで移動、更に御神霊を陸行列で意宇川沿いの阿太加夜神社までお運びします。神幸祭の終日に当たる還御祭では逆の経路でお戻りになられますので、双方ともに約8時間をかけたメインイベントになります。神幸祭の中日に当たる中日祭では阿太加夜神社の氏子たちが、御神霊をお慰めするために、松江市指定無形民俗文化財「櫂伝馬踊り」を披露します。ホーランエンヤの詞の由来は、櫂伝馬船での掛け合いの音頭といわれ、「ホーラ」の掛け声に、櫂かきが「エンヤ」と声を合わせて櫂を漕いだのが「ホーランエンヤ」となったと云われます。この神幸祭は慶安元年(1648)、出雲の国が大凶作に見舞われた時に松江・松平家初代藩主松平直政公が、松江城山稲荷神社の社司を兼務していた阿太加夜神社の神主である松岡兵庫頭に命じて城山稲荷神社の御神霊を阿太加夜神社に運んで五穀豊穣の祈願させたのが松江城山稲荷神社式年神幸祭のはじまりとされます。12年に一度の日本三大船神事として県外からの観光客もたくさん訪れます。
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小泉八雲記念館=松江を愛した文豪・小泉八雲(こいずみ やくも)はイギリス出身の紀行文作家・随筆家・小説家・日本研究家として知られる。日本国籍取得する前の旧名はパトリック・ラフカディオ・ハーンでラフカディオは彼のミドルネーム。日本に帰化して小泉八雲に改名。父はギリシア・レフカダ島駐在のイギリス軍医、母は地元のギリシア人で、生地レフカダ島からラフカディオというミドルネームを付けられました。八雲は1850年6月27日,ギリシアのイオニア群島レフカダ島リュカディア町に生まれます。その後、両親は離婚しハーンは父の郷里のアイルランドのダブリンで大叔母に育てられました。英国の学校に在学中あやまって左眼を失明します。この左眼が見えないことをいつも気にしてたようで以後の写真には顔の左面が写らない姿勢をとっています。1869年リバプールから移民船に乗ってニューヨークそしてシンシナティへ向かい1882年タイムズ・デモクラット社に就職、文芸部長となります。1890年ニューヨークから日本にむかい、
同7月 松江尋常中学校、師範学校の英語教師に任命されます。 8月30日松江に到着。島根県尋常中学校・師範学校(現島根大学)の英語教師に従事。1891年1月に中学教頭西田千太郎のすすめで松江の士族小泉湊の娘小泉節子と結婚。11月に家族を連れて第五高等学校赴任(現熊本大学)1894年神戸クロニクル社に転職。1896年東京帝国大学文科大学講師となり1904年3月早稲田大学文学部の講師に就任。9月心臓発作のため死亡。(享年54歳)代表作に『日本雑録』、『怪談』『心』『日本の面影』などがあります。小泉八雲記念館で八雲を偲んでみましょう。 |
武家屋敷=中級藩士が屋敷替えによって入れ替わり住んだ屋敷で屋敷内には家具や民具も展示されて当時を偲ぶことができる。この辺りは、かって500石から1000石の中老格の藩士の武家屋敷が並んでいたところで、ここが塩見縄手と呼ばれるのは塩見小兵衛の屋敷があった事に由来しています。この周辺は松江市の「伝統美観地区」に指定されています。
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田部美術館=美術館の創設者田部長右衛門氏は、衆議院議員・島根新聞社(現山陰中央新報社)社長・島根県知事として活躍され、自ら松露亭と号して書画・陶磁・漆器・彫刻・洋画などの美術品を制作収蔵されました。江戸時代後期の茶人、松江藩7代藩主松平不昧(1751〜1818)の茶道具なども展示をしています。 |