・石見銀山.観光ルート1/みてあるきコース 1、大森代官所跡 2、新町 3、大森 4、銀山公園 5、銀山橋 6、下河原吹屋跡 7、豊栄神社 8、清水寺 9、山吹城登山口 10、新切間歩11、龍源寺間歩
・石見銀山.観光ルート2/みてあるきコース 1、大森代官所跡 2、新町 3、大森 4、銀山公園 5、銀山橋 6、下河原吹屋跡 7、豊栄神社 8、清水寺 9、山吹城登山口 10、新切間歩11、龍源寺間歩・町並み散策コース 1、大森観光センター 2、城上神社 3、石見銀山資料館 4、勝源寺 5、熊谷家 6、青山家 7、観世音寺 8、大田市町並み交流センター 9、八島家 10、旧河島家 11、柳原家 12、寺脇家 13、栄泉寺 14、三宅家 15、旧阿部家 16、金森家 17、松田家 18、羅漢寺 19、銀山公園
ユネスコの世界遺産委員会は2007/6月27日、島根県大田市・石見銀山遺跡の世界遺産.新規登録の審議を行い、「登録」と決めた。5月の審議では石見銀山.遺跡の普遍的価値の証明が不十分として、「登録延期」と勧告されただけに逆転登録となった。(日本の世界遺産登録は14件目)石見銀山(大田市大森町にある為に大森銀山とも呼ばれる)=島根県大田市にある石見銀山 龍源寺間歩(いわみぎんざんりゅうげんじまぶ)は正徳5年(1715)に開発されました。間歩(まぶ)とは坑道がある山の意味で、石見銀山といえばこの龍源寺間歩の場所を示します。江戸時代には開掘の長さが600mにも及ぶ大坑道で、良質の銀鉱石が沢山発掘されましたが、昭和18年(1943)に閉山され、228年の長き歴史に幕を下ろしました。当時の坑道作業は過酷を極め、粉塵の被害などで、体調を崩す坑夫が続出、多くの坑夫を必要としました。石見銀山が繁栄していた頃には、銀山七谷に坑夫たちの住居が13000軒もあり、唐人たちも住んでいた処から察すると、やはり坑夫の採掘がいかに大変であったか感じとれます。石見銀山の銀鉱石は16世紀〜17世紀の間に大量に採掘され、小判などに加工されて毛利氏、大内氏、尼子氏、といった戦国大名や江戸幕府の財源として使われました。17世紀前半には石見銀山から採掘された銀の産出量は年間約1万貫(約38t)と推定され、世界の産出銀の約3分の1を占めていたそうです。当時、外国から見た石見地方はプラタレアス(銀)諸島と呼ばれ、日本銀を積むのが主要な目的の船をナウ・ダス・プラタス(銀船)、採掘された銀は佐摩村にあったことからサーマ銀=ソーマ銀と呼ばれ、朝鮮半島や中国~ポルトガルやスペインなどにも広く知られていたようです。また、石見銀山初代奉行「大久保長安」の名前を付けたと言われる大久保間歩(おおくぼまぶ)は現在未公開ですが、石見銀山の中で一番大きな銀坑道となります。大久保間歩は現在調査中との事。1969年4月14日には他の13箇所の銀山遺跡とともに「石見銀山遺跡」として国指定史跡(文化財)に指定されました。銀鉱石(原石)から採りだした石州銀小判(大)と石州銀小判(小)もあります。石見銀山龍源寺間歩の公開坑道部分の長さは273m:入場料大人400円・子供200円 TEL0854-89-0347







龍源寺間歩


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世界遺産、石見銀山

龍源寺間歩:写真

石見銀山 龍源寺間歩:江戸時代には開掘の長さが600mにも及ぶ大坑道で、良質の銀鉱石が沢山発掘されましたが、昭和18年(1943)に閉山され、228年の長き歴史に幕を下ろしました。現在は273mの地下坑道を見学できますが当時は600mの長さにも及びました。坑道作業は過酷を極め、粉塵の被害などで体調を崩す坑夫が続出したといわれます。30歳になると長寿の祝いをしたといわれていますので、いか程の過酷さか想像出来ます。その為に多くの坑夫を必要としたのでしょう。また、龍源寺間歩をはるかに凌ぐ大久保間歩(おおくぼまぶ)は現在未公開ですが、観光ルートに加われば石見銀山の中で一番大きな銀坑道となります。




石見銀山の発掘は水との戦いでもありました。坑口から85m地点には排水をするために垂直に掘った竪坑があります。その他に四角い桶や木製のポンプなども排水用に使われたそうです。発掘の手順としては1.坑夫が油灯りを頼りに穴を掘る。2.湧き水を汲み出す。3.空気を送る。4.土石を運び出す。





龍源寺間歩の銀坑道の中は鍵穴状で、奥に行くと大人5~6人が並んで歩ける広さがありますが、湿度がとても高いのでメガネは直ぐに曇ってしまいます。



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